外国為替をはじめるための基本用語

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オペレーションリスク

取引を事務的に処理する過程でのミスや、コンピューターの故障等によって決済が滞ったりするリスクの事。 と、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。 まず権力争いの中心となったのは、チンギス・ハーンの皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンらの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢をふるってきたコンギラト部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后ブルガンはコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王アナンダを皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちはクーデターを起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥カイシャンを皇帝に迎えた。 カイシャンの死後は弟アユルバルワダが帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母、ダギ・カトンが宮廷内の権力を掌握し、ハーンの命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が1320年に終わり、1322年にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌1323年にアユルバルワダの後を継いでいたシデバラが殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから1333年にトゴン・テムルが即位するまで、13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。 が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルに疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後はアスト親衛軍の司令官であるバヤンがエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、1340年にはバヤンの甥トクトが伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人したハーンも権力を巡る対立に加わり、1347年から1349年までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。 この政治混乱の中で、おそらくヨーロッパで流行したペストと同じとみられる伝染病が中国に流行し、相次ぐ天災が農村を荒廃させた。しかし、中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていった。 1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。1354年には、大規模な討伐軍を率いたトクトが、彼が強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これはハーンの権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。 朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルの大ハーン政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグス・テムルが殺害されて、クビライ以来の直系の王統は断絶する。 ipoを単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉える事には問題がある。まず華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られた事によって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。清の歴史学者趙翼は元に殉じた(漢民族の)官吏の数においては激しい抵抗が行われた南宋に次いで多かったと指摘している[要出典]。 北元では1388年にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の大ハーン世襲が終焉し、クビライ家政権としての元は断絶した。しかし、その後もチンギス・ハーンの子孫を称するハーンたちが元の君主としてモンゴルには立ちつづけ、15世紀末にはクビライ家が復権を果たす。元が最終的に終焉を迎えたのは、クビライの子孫を称する君主、リンダン・ハーンが死に、モンゴル諸部族がリンダンの代わりに満州人の皇帝ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴した1636年であった。詳細は、北元を参照のこと。 元の政治制度、および後述する経済・財政制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されていたために、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。 個人向け国債は大都(現在の北京)および上都(内モンゴル自治区)であるが、少なくとも初期の皇帝は、遊牧国家の伝統にのっとって都城の城壁内で暮らすことはなく、冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕(ゲル)群が宮廷(オルド)となっていた。 モンゴル帝国の大ハーンのもとには、第二代オゴデイの時代から、時代と設置状況により、漢語で「中書省」、「尚書省」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々なブレーンを集めていたクビライは、即位するとまず漢人ブレーンを中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に六部を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。 1263年には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として枢密院が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子チンキムが総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父であるハーンにかわって代行した。しかし、これにより中央政府のすべての機能が中書令チンキムのもとに束ねられたわけではなく、1270年にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。さかのぼって1268年には中国王朝にならって御史台が設置されており、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官たちの個性や宮廷での力関係などに左右された。 なお、元代の中書省では、総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国や日本の伝統的な官制では左が上、右が下であるから、右が上とされた元代はこの点でも特異であるが、これは、モンゴル人が右を尊いとする通念をもっていたためである。 資産運用は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である遼や金と比較しても、特に民族固有の支配体制を維持していた。元では律令のような体系的な法令を編纂することはなかったので、政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねがそのまま法令となり、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や、令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威をもった。モンゴル人は文字としてモンゴル文字と、クビライが新たに作らせたパスパ文字をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれたモンゴル語を正文としていた。漢文の翻訳も付されはしたが、そこでは口語的・直訳的な文体が用いられていた。なお、こうして積み上げられた法令は、『元典章』という中国語で書かれた書物にまとめられて現存しているが、文章は直訳体に加え、当時の官吏が使っていた特殊な文体、吏読が用いられており、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。