外国為替をはじめるための基本用語

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オファーレート

外国為替レート(相場)は、市場では買いのレートと売りのレートが、このように(→105.20-22)対となって動きます。105円22銭でドルを売る、この価格をオファーレート(売値)と言います。 不動産投資の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、それぞれの所領はチンギス・ハーン以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。 元に服属したかつての独立王国である天山ウイグル王国や高麗は、所属する行省のモンゴル人たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、忠宣王以降の国王はモンゴル皇女を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。 ワラントの地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。 人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス・ハーン時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備までハーンの身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、ハーンである皇帝との個人的主従関係に基づき取り立てられたケシクテン所属者(ケシク)たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定はハーンとケシクに列する有力者の合議により行われた。 くりっく365の官職は、ケシクの中でもハーンに近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(?馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。 ハーン家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、科挙によってハーンからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、ハーンの臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。 外為において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、ハーン家との姻戚関係などのハーンとの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の皇帝独裁制による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギス・ハーンの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。 貴族の家門に属さなくとも出世することができた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から財政官僚として登用された色目人(ウイグル、ムスリムなど)の商人たちだった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じてハーンや貴族と金銭を通じた繋がりをもった彼らは財務に明るいことから重用された。しかし、商業税や専売税の請け負いなど、中国の伝統的な財政観に馴染まない政策を取り、彼らの経済搾取を行ったことは中国人の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。 外為の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなく、幸運に官界で引きたてられても首領官と呼ばれる吏員の管理職に列することが限界だった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南人(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。元代は士大夫階層の多くにとって挫折の時代となり、多くの知識人が処士として在野にあることに甘んじた。 行中書省の配置元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。 腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。 行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家の大ハーン政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路、州、県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。 民間の掌握にあたっても、元では、個々の民とハーンとの個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上で既に触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。